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書、書法、書道
私は、書道のことを「書」と言っています。
現代の日本では、ふつう「書道」と呼ばれています。 現代の中国では、書道のことを「書法」といいます。
それでは何故、「書」と言い、「書道」と言い、「書法」と言うのでしょうか。 このことについて軽く書いておこうと思います。
中国では、唐時代の書論などでも「書」ということが多く、
古来から「書道」という言葉を使うことは少ないようです。
中国で使われている「書法」という言葉については、
清時代に書かれた書論のなかに、「書体(書体と書風)」「書法(書の技法)」
「書学(書の学問)」「書品(書のランク付け)」という分類があります。
現代中国でいう「書法」とは、上に挙げた特定の一分野の「書法」のことではなく、
いわゆる「書」をあらわす言葉として使用しています。
(もともと「書法」は用筆法などの技法的な意味の言葉です。)
現代中国では、「書」のことを「書法」という言葉で表していますが、
現代中国語では「書」というと「本(普通の書籍のこと)」という意味になり、
「書」でいわゆる書道のことを連想しないため、「書法」という言葉を
便宜的に使用して定着しているのかもしれません。
日本では、基本的には奈良時代でも平安時代でも、書のことを
「書道」とは言わず、「手」や「手かくこと」という言葉を使っていました。
ただ、平安時代に「筆とる道(源氏物語)」という用例はあります。
「書道」という言葉は、平安末期の皇円という人が書いた「扶桑略記」に、
天平の吉備真備(入唐留学生)の伝えた学問として「・・・天文、漏剋、漢音、書道云々」と
羅列してあるのが文章中の言葉としては初出のようです。
それ以降、江戸時代まで「書道」という言葉はあまり使われていないようです。
(ちなみに扶桑略記は書について語っている文章ではありません。)
また、平安時代には、大学寮の学科として、○○道という呼び方をしていたようです。
これは、紀伝道(中国史)、明経道(儒教)、音道(中国語の発音)、算道(算術)、
書道(書を書くこと)、などという学科名として道が使われています。
ここでの道という言葉は、その分野の体系、知識の集合体といった意味合いで
使用していたと考えられています。
平安時代までの日本では、書のことを「手」と言っており、
「道」という言葉を使ったとしても、現代の我々が○○道という言葉で連想しそうな、
型を覚える、精神修養、といったようなニュアンスは、含まれていません。
鎌倉室町の時代になると、「入木道」という言葉が出てきます。
「入木」とは、書の名手であった王羲之の故事からきた言葉であり、
いわゆる書のことであり、平安時代における「手」や「手かく事」のことです。
よって、「入木道」は「書道」と直訳することができます。
ここでも、道というのは、知識の集合体といった意味合いでしょう。
「道」を使った言葉は、
「道」という観念が顕著になった中世以降に使われ始めたようです。
「ひとつの理想とする型に至るための修業の過程」、
あるいは「師匠からの伝承や踏襲」といった意味合い、
また、それに加えて「人間性の修行」というニュアンスも
含ませているのではないかと考えられます。
江戸時代には「書道」という言葉が出始めているようですが、
江戸時代であっても、型に至るための過程、師匠からの踏襲、人間性の修行、
というような「道」で連想する概念がいわゆる「書」の概念だったわけではなく、
江戸時代の書がすべて「道」の概念で書かれていたわけでもありません。
つまり、書道の世界においては、書道という道が含まれた言葉を使っていても、
その分野の体系、知識の集合体、あるいは思想や哲学、
というニュアンスで使用していたと思われます。
書道の道という言葉については、このような経緯であります。
たまたま発生した「書道」という言葉が、現代になって便宜的に使用されて、
そのまま定着していると解釈するといいのではないかと思います。
明治時代でも、「書道」ではなく「書」という言葉を使っている文章はありますし、
昭和でも平成でも、現代でも「書」という言葉で表現されることは多いです。
話は変わりますが、
現代においては、「○○道」というと、伝統や権威を感じさせますし、
型や修行のような概念を感じさせる「道」という言葉は、ある意図をもって
使用されていることもあるのではないかという気がしています。
型や修行、少しずつ進歩する、といった意図を含ませておいて、
これが伝統です、こういうものです、としてしまえば、きっと便利ですから。
ただ、伝統とか長い歴史があるものは、その歴史を踏まえつつ、
時代時代に変化して今に至っています。
今までこうだったから、というスタンスで、古い考えから変化しないままでいたら、
いつのまにか時代に取り残されて、終わってしまうことも多いでしょう。
しかしながら、これはこうだと決めつけてしまうことも横行しているようです。
それが弊害といわれないように、柔軟に対処していくことが、長い伝統をもつものを
次代に繋げていくために大切な姿勢だと感じています。
さて、「書」というものが、いわゆる「書道」という言葉のニュアンスに影響され、
敷居が高そうな、よくわからない高尚な印象を与えていることもあるのかなと
感じることがあります。
私はよく、麺に例えます。
元は小麦粉でも、中華麺、うどん、そうめん。麺の太さやコシはいろいろ。
醤油味、味噌味、塩味、豚骨味。具材は牛肉、豚肉、魚介類。
時代や好みによっても変わっていくものであろうし、食べて美味ければよい。
上手く作るには練習は必要だけど、ひとつの技法にこだわらなくてもいいし、
良いものが出来たらそれでいいのではないだろうか・・・。まずくなければ。
話がそれてしまいましたが、
私は本来の書の姿を求めていきたいという意味で、
「書道」ではなく「書」という言葉を使用するようにしています。
また、私は自身のことを、書家、あるいは書人(書を書く人)という表現をしていますが、
書道家という言葉が一般的によく使われていますので、
書道家という呼び方をされることもよくありますが、特に違和感はありません。
中国や台湾では書は「書法」ですので、書家のことを「書法家」といいます。
韓国では書は「書芸」といいますので、書家のことを「書芸家」といいます。
日本では「書道家」が一般的。
奈良平安の時代には、書のことを「手」と言っていたのですが、
今でも習字という意味で「手習い」という言葉が残っています。
六十の手習い、など。
「道」という言葉について、ほかの武術や芸術で「道」が使われることになった
時期や経緯などについても、網羅的に調べてみても面白いと思います。
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